7歳年上の旦那と私そして中学2年生起立性調節障害の娘の三人である。
普通を切に願っているけれど、うちには 波乱に多い道
を歩んでいる気がする。
娘が3年生ぐらいからか、中国に旦那は出張に行き始め、コロナ前は2、3週間にいっぺんだったのがコロナ渦でも中国の工場は稼働していたので中国の入国許可のビザが降りたら、現地に向かっていた。
コロナ中だったので人には中国に行っていることを言えなかった。
娘がいじめられたらどうしよう…。
っていう気持ちがあったからだ。
武漢が最初に街を封鎖したとき、旦那と同じ会社の人たちが、武漢に行っていた。
そのチームが 政府の飛行機で帰ってきたことがある。
それをきっかけに、家族に反対され、その仕事から離れた人もいたそうだ。
その後、主人が行っていたところ、パンダで有名な成都も封鎖になり、しばらく中国行きはストップ。
そして東京では緊急事態宣言だった時に武漢の方ではすっかり落ち着きを払い、日常生活を取り戻していた。
ほとんど みんなが感染してしまったんだろうな。
なんで逆に 武漢の工場が稼働することになり、中間管理職の主人は
中国へ行くこととなる。
この時の中国ビザというのは就労ビザのみで
企業でも中国で認められてる企業、中国が重要な企業しかに外国 は入国できなかったので 普通の人は行けない。
けれども主人がやっていたのは世界に出回るような製品の
一部に関わることだったので許可は降り、渡中。
中国では 中国のホテルに缶詰隔離で3週間。そして国内移動で現地に向かう。現地先でもまた隔離。
隔離が多かったので半年ぐらいの現地で勤務。
そして一区切りをつけて日本に来たら、日本の成田空港の近くで2週間の隔離。隔離生活を終えて自宅に帰ってくるという生活を送っていた。
旦那がいないことはやはり心細い。
コロナ中だったので特にこの気持ち的には頼れるものがないっていうところで不安に感じていた。
娘にも学校のお友達に言うのを控えてねって言っていた。
そういった中で私も娘も大きいストレスに感じていたところはあった。
ちょうど去年の今頃、娘が起立性調節障害になって寝たきり。
気絶したように眠っていると、もう一人では対応できなくなった毎日。
中国の旦那まで連絡していたことがある。
もうその仕事は会社に話して離れて欲しいと伝えたことがある。
娘の前ではそういう姿を見せたくなかったので影では泣いてた日々だった…。
そして去年の今頃、小松菜を学校で育てなさいと理科の課題で小松菜の苗を持って帰ってきた。
娘が寝たきりだったので、ほとんど私が育てたんだな。
今振り返ると小松菜を育てることが私の救いだった。
ねてばかりの娘だったので少しずつ大きくなっていく小松菜がすごく愛おしく思えた。
懐かしい😌
またなんか植物を育てようかな🍀
⏬写真がでできた!
順番逆だが、元気よく小松菜が
育ち、美味しく頂きました😋